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日语作文

来源:学生作业帮助网 编辑:作业帮 时间:2024/09/25 05:21:04 字数作文
日语作文字数作文

篇一:日语小短文

私の将来の夢

人々は自分の将来に夢を持って生きていくことがありますが、私も将来の夢を持っています。私のこの夢はあまりそれ程偉く、大きなものではありませんが、ただし、私にとっては大切なものです。何かといいますと、漫画家になるということです。子供時代の私は科学家になりたいし、超人になりたいし、将来にいろいろな可笑しい夢を追ったことがあります。残念ですが、今ではそれらの大部分をもう捨て、漫画だけはずっと大好きで、漫画家になる夢はずっと持ちつつけています。漫画家は決められた固定的な労働時間と場所がない自由な職業です。漫画を通していろんな幻想力みんなの目の前に展開できます。その中で人それぞれに楽しみを得ることができるじゃありませんか。なぜこんなに好きだと言いますと、その理由は幾つか考えられますが、主に次の二つの要因が考えられます。その一つは漫画は別のジャンルよりずっと面白いです。子供でも、大人でもストレスがだんだん多くなって夢のない日常生活には、空想の世界に浸らせてくれるもっとも手軽な手段は漫画を見ることかもしれませんね。漫画家は人々に楽しみを伝える職業と思います。そして、もう一つの理由は面白い職業ばかりでなく、漫画からたくさんの感動と感想がもらえると思うからです。八歳ごろ一冊の漫画を読みました。名前も忘れてしまいましたが、影響力はまだ残っています。それは勇気についての物語です。主人公は能力が足りないものの、一生懸命頑張っていたので、ついに成功しました。それ以来、そういう信念を持っています。まだできないのは大丈夫だが、この堅持の勇気を持たなければならないと思います。私は漫画家になって、その勇気をみんなに話してあげて、次々に湧き起こってくる感動と感想をみんなと共に享受したのです。今その夢のために準備しています。頑張って絵を描く練習をすると同時に、漫画の資料を集めています。漫画家になる道は多分厳しく、疲れが多く、収入も少ないかもしれませんが、もう自分の理想を目指して、私の将来の夢は未来のある日にきっと実現できると固く信じております。

私の梦

梦は人间が谁でも持っているものでしょ。梦人が生きている力と希望といわれています。

皆さんはどんな梦を持っていますか?私はいろいろな梦がありますが、将来、何になりたいかはまだ考えていないです。この间、友人と梦についての话を浴したので、私は自分の梦をはっきりして、真剣に考えるようになりました

わたしはたくさんのことを兴味に持っているから、多くのことをやってみたいです。たとえば、司会をしたいことや、ロックスダーになりたいことや、作家になりたいことなど世界でいろいろ好きなことを全部やってみたいです。兴味があるから、困难があってもきっとあきらめないと重って、自身をもってやり続けています。どんなことをしても兴味は一番大切なものだと私が思います。

皆さんはどう考えいますか?兴味がなければ、やる気もなかなか出られません。すると、仕事をやり続けることも无理でしょ。

私は今日本语科の学生です。三年前、日本のロックバンドL`Arc~en~ciel(ラルク~アン~シエル)が好きになって、日本语を自分で勉强し始めました。そして、日本の映画やドラマをよく见るにつれて、日本の文学や伝统行事や日本人らしい発想を知りたくなったのです。去年、私は上海へいって、ラルク~アン~シエルのライブを见ました。初めて大好きなロックバンドのライブを见て、とても感动しました。大きいな喜びと幸せを感じられたと同时に、日本语にもっと兴味がわいてきました。これから、もっと顽张って、日本语をしっかり勉强しようと决心しました。日本语は勉强すればするほど难しくなるそうですが、兴味がもっているし、それにもっとロックのライブを见たい目标があるから、困ってもつらくてもきっとあきらめない、一生悬命顽张って勉强し続けて行こうと思います。

私はやりたいことがいろいろありますが、将来、どんな仕事をするかを决めるのは今私にとって难しいです。ぞれに、将来、社会人になると、思っても思えない困难がたくさん出てくるかもしれません。しかし、自分が好きな仕事ができて、毎日、楽しく过せるのをいつも望んでいます。ぞれは私の梦です。皆さんもそれぞれの梦があるでしょう。梦があるからこそ、日々の苦しみに耐え、明日もまた生きてゆこうという意欲が生まれます。昔からに成功者、伟人といわれる人々は、いずれも大きな梦を持ち、梦を育って、そして梦の実现のために努力した人たちです。そうといっても、努力することが嫌い、梦だけを大きく膨らませていたのは、いわゆる幻想で、やがてそれは、はかなく消えることになるでしょう。それで、皆さんは自分の梦を持っていて、梦に向かって、いっしょに顽张りましょう!

私の友達

私の友達はいつも励ましてくれる先輩です。彼は高校三年生になった時、私はちょうど中学三年生になったばかりでした。 成熟した彼は大学入学試験の準備に入ってから、どんなに忙しくても、私のことを一位として、いつものように助けてくれました。その時成績がなかなか上がらないことに悩んでいました。彼は毎日暇があったら、休まずに私を散歩に誘っていたのです。 でも、受験勉強のせいで、仏頂面をするようになってしまいました。「ああ、なんでそんなそっけない顔をしてるの?ぼく、悲しいわ...」とわざと柔らかい声で話しかけてくれました。不思議なことに、たとえ不愉快でも、彼の声を聞くと、なんだか微笑みが浮かんできたのです。二人でいる時間が本当に早いものですが、そばにいてくれるというだけで、満ち足りるのです。 入学試験が終わった後、旅行しに行くことを約束しました。初めて外国に着く私たちはき

れいな環境と空気に驚き、うれしさははじけるほどでした。でも、しばらくすると、臆病で、学校で勉強した外国語がうまく生かせなかったのです。気が短い性格なので、何か困難にあった時、「英語なんて、何にも役立たない。」と怒ってしまいました。「外国語を必修科目に見なしたら、ちゃんと身につけるわけがない。外国語はコミュニケーションの橋ですよ、大変役立つではないか。自信さえあれば、なんでもうまくできるでしょう。」それを聞いて、失った自信がだんだん戻ってきました。その一週間の間に実は私は変わっていったのです。 今、先輩は卒業し、有名な大学に進学しました。少しさびしく思われていますが、彼の励ましで私も外国語大学に目指して、頑張っています。

お母さんのに手纸をあげます

亲爱なるお母さん:

こんにちは!

あなたが私をこの世界に来させることに感谢して、数年来私の父母の恩に対してあなたに感谢します。あなたはどれだけの心血を费やしますかが分からないで私になります。あなた学习の上で、生活の上で私は行き届いていて配虑と配虑ですに対して、あなたは私のために楽しい学习环境を创造しました。今日、娘は特に引き裂いてあなたの--私の常に付き合ったお母さんに手纸を书いて、私を表しますあなたの感谢の思いに対して。

学习の上で、普通の家长达poはただ子供の知识だけを重视して、あなたは私ぐいっと学ぶ键に。あなたが私に学んで--心まで(へ)4するべきなように教えます、目、口、手が着きます。心が着くのは考えが一心で、あれこれためらうことができません;目は问题をまで(へ)はっきり见ます;口は読むべきですのまで(へ)真剣に読んで、発言するべきなのは、耻ずかしがらないでください;手はまで(へ)いつも笔记に抵抗して、“良い记忆力がぼろぼろになるペン先に及ばないためですと大胆に言います。” あなたのこれらの方法は私に大いに利益を受けさせて、一生役に立ちます。

お母さん、私の成长の过程の中で、私のいかなる成绩、すべてあなたの心血があって、あなたが私にどのように学ぶことをどのように身を処しますわかるように教えたのです。あなたは安心して、今后私はいっそう努力して学ぶことができ(ありえ)て、自分に全面的に発展して、自分を役に立つ人にならせます。 祈ります:体の健康!

祈ります:体の健康!

仕事は顺调です!

あなたの娘

「アルバイト」

「アルバイト」はもともとドイツ語で「仕事」という意味であるが、日本では40年ほど前から、学生の副業の意味として使われるようになった。

現在、日本の大学生の90%以上がアルバイトを経験しているという。そしてアルバイトのために学校を休む学生も多いそうである。

授業はやぼってもアルバイトにはいく。そういう大学生たちは何のために働いているのだろうか。あるアンケート調査によると、大学生のアルバイトは、サービス、販売など第3次産業の仕事が多い。そして、「どうしてアルバイトをするのか」という質問に対しては「海外旅行をしたいから」「車を買うため」などの回答が多かった。ほかにも、「貯金をして、留学の費用にするつもり」「学費は自分でかせぎたいから」「会社勉強になにから」という回答も見られたが、ごく少数てあった。この調査結果からわかるように、アルバイトの目的は遊ぶためのお金をためることが中心となっている。

たとえ遊びが.主な目的でも、アルバイトをすることで、労働の尊さやお金を得ることの大変さを体験できるのだから、大きな意味がある。しかし、アルバイトのためなら授業をさぼってもいいとのは問題である。

环境(かんきょう)は、広义においては人、生物を取り巻く家庭?社会?自然などの外的な事の総体であり、狭义においてはその中で人や生物に何らかの影响を与えるものだけを指す场合もある。特に限定しない场合、人间を中心とする生物に関するおおざっぱな环境のことである场合が多い。

环境は我々を取り巻き、我々に対して存在するだけでなく、我々やその生活と系わって、安息や仕事の条件となり、また狭义の环境については、我々が汚染し、破壊するという関系性の中で大きな问题になってきた。

人类は古くから文明を発展させてくる过程で、自然环境を资本として利用してきた。天然资源を原材料に物を作ったり、燃料を使ったりすることで、原始的な狩猟采集生活に比较してはるかに高い生产力を実现したのである。そのため、原材料やエネルギーの使用量も次第に増え、21世纪を迎えた现在の先进国のエネルギー使用量は狩猟采集生活のころに比べて50倍以上[1]となっている。人口も急激に増えていることを考えれば、过去数十万年で原材料やエネルギーの使用量は爆発的に増えたと考えられている。

しかし、自然环境を利用することで、否応无しに自然环境に负担をかけることになる。少しでも自然に手を加えれば负担が発生するが、自然は自己修复性を持っており、ある程度の负担までは短期间で回复可能である。具体的に自己修复性とは、植物が伐采されたあと再び芽生えて元のように成长したり、物を燃やした际に出る灰や烟が拡散?沈殿などを経て分解されたり生物圏から隔离さ

れたりすることであり、生物学や物理化学によって说明される。

自然が持つ自己修复性を超えて负担をかけたり、自己修复性が损なわれたりすると、回复が遅れ、结果的に人类をはじめとした生物に悪影响を及ぼすことになる。上に挙げた例で言えば、植物が过剰に伐采されたことで雨で土が侵食されて贫弱な土壌となり植物が育ちにくくなり、その植物を粮にして生活している人间やそこに栖む动物が被害を受けたり、大量に物を燃やすことで灰や烟が地上にも広がって、それを人间や动物が吸い込んで健康被害を受けたりする。

日本の印象

今日は私が日本に対する印象について、话したいと思います。

日本に来て、最初の印象は先ず、交通のルールを皆さんがよく守っていて、车多い割りに交通事故は少なく、スムーズに流れていると思います。

そして、电车の凄さです。朝の通勤ラッシュ时间帯において电车本数の多さと利用客の多さに惊きました。このような电鉄システムがあるので、大都会东京、大阪のような卫星都市型に成り立っているからです。

ただ、一つ残念なことに日本の漫画や雑志について、単纯に売り上げや、视聴率を追求して、その内容を问わず、やがて、青少年に悪い影响を及ぼすことに违いません。それと同様に携帯电话の普及に伴い、小中高生の持ち率も年々上がり、出会いサイトやネット上の中伤など、青少年の犯罪や、自杀等年々増え、社会问题にもなっています。

社会が进化に连れ、いいことが多いですが、必ず副作用のようなものも付いてきます。それに対する対策をも当然改善していますが、青少年には有効な制限或いは措置を望みます。

以上私の日本に対する印象と感想です。

ご清聴ありがとうございます。

我的兴趣是旅游

私はいろいろな趣味があります。その中で、大好きなのは旅行です。小さい子供のときから、両亲に従って旅行に行きました。いままで、广西,苏州,无锡,扬州,北京など、多くの所に行ったことがありました。

しかし、そのとき私には自然の美しさをたのしむのがわからない。游びしかわららない。だんだん成长してはじめて旅行は自然に楽しませるだけでなく机嫌によくさせることができると思われるようになりました。

篇二:日语优秀作文

00は大切な動物

昔から、馬は大切な動物だった。人は馬に荷物を運ばせた。駅という字はもともと馬を乗り換える所という意味だった。馬は人よりずっと速く走れるので物や情報が速く、広く伝えられた。

しかし、20世紀の初めに自動車が発明されて馬の代わりをするようになった。自動車は馬より力とスピードがある。いま、人は楽しみのために馬を競走させたり、サーカスでいろいろな芸(げい)をさせたりしている。趣味で馬に乗る人がいるが、車に乗る人のほうが多い。馬を見る機会は少なくなった。 でも、走る馬の美しい姿は今も人の心を捉まえる。これからもずっと馬は人にとって大切な動物だろう。

富士山

日本では名勝がたくさんある。富士山はその中の一つである。みなさんは行ったことがなくても、聞いたことがあるに違いない。

富士山は日本で一番高い山で、3776メ―トルだ。静岡県と山梨県の間にある。冬は雪が降って、白くなる。夏の山の上に雪がある。七月と八月だけ富士山に登ることができる。山の上に郵便局があって、手紙を出したり電話をかけたりすることができる。

夏と秋、いい天気の朝富士山は赤くなる。とてもきれいですから、日本人は写真を撮ったり、絵を書いたりする。葛飾北斉のあかい富士山の絵は有名だ。 私は日本へ行く機会があったら、きっと富士山に登って沢山の写真を撮って、友たちにあげようと思う。

電子図書館

図書館は知識の宝庫だ。色々な情報が集められている。図書館へ行けば、いつも必要な本が手に入るはずだ。しかし、図書館に欲しい本がない時や調べに行く時間がない時がある。そんな時、電子図書館が役に立つ。

電子図書館はパソコンを使って図書館を利用するシステムだ。例えば、キーワードや本の名前の一部分を入力すれば欲しい本がすぐ調べられる。辞書一冊が二秒で出せるし、図や写真も簡単に見られる。出たばかりの新しい本もすぐ見られる。電子図書館からいっても、どこでも利用できる。

最近人はお本を読まなくなったと言われているが、パソコンを使って図書館を利用する人が増えるかもしれない。

私の好きな一言

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」これが学校で最初に習った日本の格言であって、私は好きでよく引用する格言の一つである。

この言葉は人間は生来平等で生まれつき高貴(こうき)な人間もなげれば卑劣(ひれつ)もないと言うふうに解釈されるが、しかし、私がそれだの意味ではないように思う。むしろ、知性の上で生まれつき聡明な人生もなければ愚劣(ぐれつ)な人もないと解釈してみたいのである。

私は農民の子として、田舎で成長してきた。だから、都会に出て来たばかりの時は、色々なことが分からなかった。勉強においても意外に知らないものが多かったりで大変であるが、どんなに難しく勉強でも私は締めなかった。他人のできるころは勉強すれば自分も必ずできると思ったからである。

勉強が苦しくなって来た時ばかりでなく、競争に負けた時にも私はいつも自分に言い聞かせるのは、「自分の企業を持ち」と言う夢を実現するために努力し続けていくことです。

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。」だから、私が人に劣(おと)っているのではなく、それだけ努力や勉強が足りないからなのである。 敬老の日

老人は私たちのたからものだと言われる。老人を尊ぶことは大切だ。だから、私たちは敬老の日を重視すべきだ。

今ごろ、私たちは老人に関心することは少なくなった。たくさんの老人は放棄されて、いじめられる。老人が重い負担だと言う人は多い。

でも、老人はいろいろな経験がある。その経験は若者には持っていない。若者にとって、その経験が大切だ。そして、老人のおかけで、私たちは幸せな生活を過ごしている。私たちは老人を忘れてはいけない。

だから、敬老の日は若者が老人を尊ばせるために定められた。私たちはもっと老人を関心に寄せるべきだ。私たちは老人を重視すべきで、敬老の日も重視すべきだ。

喜びと悲しみ

人生は喜びも悲しみもある。みんなは喜びだけが好きだ。でも、悲しみも人生の必要なものだ。両者とも人生にかかせないものだ。

人生の各時期にも喜びがある。赤ちゃんの誕生や、大学卒業や、結婚するなどいろいろな喜びがある。それで、私たちの人生が楽しくなる。みんな喜びが好きだ。

一方、悲しみもいっぱいだ。病気や交通事故や死亡は毎日起こるだろう。人々は災禍に弱い。特に死亡に対して、何もできない。しかし、死亡は人生の中で最も自然のことだ。

みんなは悲しみが嫌いだが、もし悲しみがないと、みんなはすべての事物を大切にしないだろう。だから、悲しみは人生で重用なものだと思う。

人間と言う生物は、強い感情を持っている。喜びも悲しみも人間の感情だ。もし、どちらかがなかったら、人生は不完全になってしまうのだ。

味で言えば、喜びが甘いもの、悲しみが苦いものだろう。そして、この世の中に甘いもの、つまり喜びだけがほしい人が少なくない。しかし、それは、いい考えではない。

もし人生の中に悲しみがなかったら、喜びも甘くなくなる。悲しいことを経験してからこそ、その喜びの美しさを分かる。そして、人生を大切にするようになる。だから、悲しみも人生の不可欠のものだ。

私の考えで、悲しみがあるからこそ、喜びが人生の大切な物になる。だから、両方とも人生に欠かせないものだ。

私の抱負

小さいときから、「将来何をしたいか」と聞かれる。いろいろ考えた後、やはり一番教師はなりたいのだ。

中国語には「学生たちは祖国の花で、教師は花を育てる人だ」という話がある。だから、教師は偉大な仕事の一つだと思う。それで、将来私は教師になる抱負を持った。

しかし、十数年の学生生活をしてから、先生の仕事はたいへんだと分かった。先生たちは授業の準備をするために、私たちの宿題を直すために、ほとうど毎日夜遅くまで仕事をする。そして、先生は学生の勉強や生活など何か問題があったら、すぐ解決しなければならない。今は教師が簡単な仕事ではないと思うようになった。

ところが、学生たちは教師の苦労が理解できるだろう。教師の偉大さが了解できるだろう。教師の努力を知っているだろう。

私は将来良い教師になりたいのだ。

連休

去年の10月の連休に、友たちと一緒に山登りすることを決めた。みんな広州にとまっていたから、有名な白雲山へのリに行った。

秋になったが、朝はちょっと暑かった。しかし、空が青いし、風がやさしくて吹いていたから、なんと気持ちがよかった。

まず、山麓の外国語学院に着き、友たちと集まった。それから、山をのり始めた。白雲山はあまり高くないので、のりにくくない。私たちは歩きながら、写真をとったり、いろいろな話を言ったり、笑ったりした。

白雲山は水がきれいだと人々に知られている。そのために、「山水豆腐」もとても有名なのだ。美しい景色を楽しんで、美味しい「山水豆腐」を食べるのは人生の楽しみの一つだろう。

そのような楽しい連休で平日の疲れと悩みが全くとれてしまったのだ。

2010年、上海万博

2010年の万博は上海で行う。「万博」ということは世界各国の一番素晴らしいことをこの会場で現れる。この万博のなかで最も素敵な国の館は中国館と日本館だと思う。

日本の技術は世界で有名なのを皆知っている。万博の日本館にたくさんの新しい型の車がある。そして、そこに話せるロッボトがある。しかも、このロッボトはバイオリンを弾ける。其れを見て、日本は素晴らしい国だと思う。 それて、中国は長い歴史を持つ国だ。だからたくさんの優秀なことを発明した。中国館中に書道とか中国画とか印刷の技術などいろいろなことがある。それらは中国の文明の姿だ。

万博は上海で行うのにほこりを持つ。万博を見た後でいろいろ知識を広めた。もし中国は日本から立派な技術を習えば、中国はきっと強くなるだろう。中国と日本の交流の橋になりたい。

2010年の上海万博は世界中のヒット話題になっている。それは万博がそこで行われているからだ。

万博会は世界中の何百もの国からの先進な技術とか、一番新しい商品とかいろいろなものを展示する大会ということだ。先進国にせよ、発展途中国にせよ、

強弱を問わず、誰もが万博会で自分の文化、科学などを世界に紹介しようと思っている。

そして、万博会は国力の強さを示す舞台のみならず、金もうけのチャンスとも言えよう。この万博のおかげて、上海への観光者やビジネスマンなどが増えていく。だから、上海の経済は万博にめぐまれている。それだけではなく、中国の経済も万博のおかげてだんだん進んでいくと思う。

以上は上海万博についての思いだ。中国人として、このような立派な大会が祖国で行うのは嬉しいことだ。

2010年、万国博覧会は上海で行われる。上海万博は、上海人にとっても中国人にとっても、大変よろこぶなことだと思う。

上海は、経済も政治も文明も発達し、国際化な町だ。今度の万博で、色々な客が上海に来る。この町、そして中国の魅力を感じられるだろう。その反対、我々も上海万博によって、さまざまな国の歴史や文化やもっと深く了解できるのではないか。

今、私達の授業は毎日忙しいので、上海へ行けないが、テレビと新聞から万博のことを分かる。もし時間があれば、私も上海万博を見に行きたい。自分の視野がもっと広くなるようにぜひ一度いってみたい。

上海万博は、世界に新しい中国を見せてあげるチャンスだ。

ここ数年、中国にとっては、とても重要なチャレンジがある。2008年のオリンピック大会は勿論、また2010年の上海万博も中国にとって、深い意味がある。だから、これは成功しなければならない。

今年5月に開催されてから、たくさんの観光客が世界各地から集まってきて、万博を参観する。ゴールデンウィークの間は、観光客の数量が増える一方だった。各国の建物は高い評判を受けているし、中のサービスもよいと言われている。

すべてうまくいっているみたいだ。でも、今度の万博はまだ成功ではない。万博のために、たくさんの人は自分の家がなくなった。政府はこの人たちの困難をちゃんど解決しなければならない。また、大会の終わる時、各国の建物をどうしようかまだ分らない。政府はできるだけ無駄をしないようにこの建物を処理するべきだと思う。

私の人生観

世に中で、人間がたくさんいる。そのために、さまざまな人生観があろう、すなわち、人間によって人生観が違う。立派な人とか悪い人とか、皆は人生観を持って。人生観は大切なものだから、いい人生観を立てなければならないと思う。

私によって、人生に対して二つ考えがある。

一つは仕事や勉強などに対して、「働け、もっと働け、あくまで働け」という言葉は私の座右の銘だ。人間というものは寿命は大体数十年だろう、この数十年間に努力しなければ、後悔を残るかもしれないだと思う。そのために、後悔を残しないように一生懸命努力する。

もう一つは、他人に対して。人間は社会動物だと思う。一人きりの力ででき

ることが少ないので、お互いの手伝うことが大切だと思う。特に、他人にいいことをしたほうがいいと思う。例えば、中国の雷のような人は他人の世話ばかりしたが、自分のことが少ない考えた。彼のような人は立派な人だと思う。 こんな二つの人生観を持っているのは私の努力的な目的だ。自分の力でその目標は必ず達成されるものだ。

私の人生観(二)

どのように一生を過ごすかということについて、人々はよく考えるだろう。人々は理想的な人生を求め、そのために努力するわけだ。私も自分なりの人生観を持っている。

私は平凡な人生でいいと思うが、一生の中に少なくとも次のものを持たなければならないと思う。それは幸せな家庭、仲良い友達と好きな仕事である。幸せな家庭で暮らす健康な両親と愛し合う人がいれば、心が安らかである。仲良い友達として、互いのために何を犠牲にしてもいいと思う。それらの親しい人がいなければ、どんなに寂しい人生だろう。心を許せる人があれば、きっと幸せな人になるに違いない。また、好きな仕事を持たなければならないとも思う。好きな仕事があれば、人生はもっと有意義で楽しく過ごせるだろう。

家庭と仕事がともにうまくいったら、きっと充実した完璧な人生になる。自分の人生を実現できたなら、後悔しないと思う。

子供のしつけについて

最近、スーパーの店内を走りまわったり、母親がお菓子を買ってくれないからといって、泣き喚(わめ)く子供に腹立たしく思う。親が周りの人に迷惑をかけている子供を叱らないのだ。今はもう親が子供をしつけられなくなってきている。

こうした状況の背景には、核家族化によって、しつけに厳しい年寄りも子供に甘くなってしまい、幼いうちに基本的なマナーを身につける機会が減ったと言うことである。先日電車に乗っていたら、男の子がシートからつり革に飛びついていては飛び降りていた。「危ないよ」と注意すると、母親から変な目で見られてしまった。もっとひどい話は、小学校で授業に教室をうろうろ歩き回る子供がいても、教師が注意しないとのことだった。子供の主体性を尊重したいと言っているのである。これは誤った自由主義ではないだろうか。

しっかりしつけられなかった子供が、親になって自分の子供をしつけることができるだろうか。子供時代のしつけこそが立派な社会人を作る基本であろう。

環境問題について

人類を含めたすべての生命は、地球という恵まれた環境により育まれたものだ、生命が今後も生存していくためには、今日の環境を保全する必要がある。 そして、現状の地球は大気汚染や海洋汚染など多くの問題を抱えている。地球の温暖化は人類にとってもっとも難しい問題の一つで、オゾン層の破壊も深刻であって、早急な対処を必要としているのだ。今や環境問題は国内問題の枠を超えていて、国家間の協力が不可欠である。

しかし、?言うのは易く、行うのは難しい」である。なぜなら人間は常に犠牲にしてきたからである、多くの人が個人の経済的利益のために、木を切り、海や川を汚してきた。他人の不幸に無関心なのと同様、地球の悲劇の無関心な人

篇三:日语作文

我叫xx,今年20岁,是一个大学生。 私、xxともします。今年は20歳の大学生です。我喜欢蓝色。 我性格活泼开朗。 青色が好きで、性格が明るいと思います。平时喜欢听音乐,唱歌。 在空余的时候也会看小说。 普通、音楽を聴き、歌を歌って、暇のとき、小说を読むこともあるんです。我学习日语1年了。 もう一年日本语を勉强しているんです。我很喜欢日语也很喜欢日本漫画。 日本语が大好きで、日本の漫画にも趣味をもっています。希望有一天我能看懂日语的漫画。我会继续努力学习日语的。 ある日漫画を読めるため、それからもしっかり日本语を勉强していくつもりなんです。//日本语の漫画が読める日を望んでいます。続いて日本语の勉强にがんばるつもりでいます。

我的家人有4个人,爸爸、妈妈、弟弟和我。爸爸是一名建筑工程师,每天工作回家都要我做料理给他吃。妈妈温柔善良,做的料理非常好吃,但是因为身体不好所以没有去工作。我弟弟高中生,他非常顽皮,常常和我玩。我爱我的家人,希望我的家人每天都健康快乐!

はたす の かぞく は よにん です。ささ と はは と おとぅどい と はたす です。ささ は けんさくか です 。はは は やさしい です。 はは の つくる りょりぃ は おいしい です 。からだが わるい ので しごどしていません 。 おとぅどい は こごぅせん です。はたす と おとぅどい いっしょ に あそびます。 はたす は かぞく が だすき です。 はたす の なが いは はたす の かぞく が まいにさ でぃること です。

(我的家庭)如许多上海家庭一样,我的家是个幸福的三口之家,爸爸、妈妈和可爱的我。爸爸看上去有点严厉,其实在平时的生活中,时不时会做点让人发笑的傻事出来,妈妈平时会很唠叨,但却是我和爸爸在这个家中不可缺少的因素,我有一个美满的家庭,在未来里,父母将是对我来说我最重要的人,我爱我的父母。

私の家族(我的家庭) 私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。 父、母とかわいい私です。 父は见るのがちょっと厳しいですが 実は日常の生活中に 时々人に笑われることをします。母はふだんにぶつぶつ言うことがありますが 私と父に対して母はいないと 生活ができない人です。 私は 幸せな家庭があって 未来 両亲は私に対して 最重要な人です。 私は父と母を爱しています。

我的家庭有3个人,爸爸,妈妈,还有我。爸爸是司机,妈妈是公司职员,我是学生。爸爸是个聪明幽默的人,妈妈是个热情善良的人,我是个开朗的人。爸爸喜欢上网玩游戏,妈妈喜欢看书,而我却喜欢听歌,玩足球和篮球。虽然我是女生,但我从很小的时候就喜欢上了足球和篮球,因为玩足球和篮球的时候,能让我感到放松,这不仅可以锻炼身体还可以缓解压力。而且当你在一个地方自由奔跑时,你会感到快乐。所以,每过几个星期,我都会和同学,朋友一起踢足球或打篮球。而听音乐,对我来说,也是一种自我放松的方式。因为在我心情不好时,听音乐可以使我开心,忘记烦恼。所以我喜欢音乐。总而言之,我很快乐,很幸福,很开心,因为我的家里总是充满着爱,每天早上,晚上我们总是一起吃饭,有时侯,晚饭后我们还一起去公园散步,所以,我爱我的家,爱我爸爸妈妈。

私の家は3人家族です。父と母そして私です。 父は运転手(什么司机呢?出租车的话タクシーの运転手)をしていて、头が良くてユーモアの有る人です。 母は会社务めをしていて优しく、読书が好きです。 私は学生で、音楽を聴く事、サッカーとバスケットボールが好きです。 女ですが、小さい时からずっとサッカーとバスケットボールが好きで、サッカーやバスケットボールをすると身体を锻える事も出来ますし、リラックス出来るし楽しいから好きです。 よく毎周、友达とバスケットボールやサッカーをします。 音楽は、落ち込んでいる时に闻くと気持ちが楽に成って、悩みを忘れる事が出来るので、音楽が好きです。 我が家は毎日、朝

晩家族一绪に食事をします。 时々、夕饭の后家族で一绪に公园に散歩に行ったりします。 私の家には、いつも爱情が満ち溢れていて、とても楽しくて幸せです。 ですから私は我が家、そして父と母が大好きです。

我家有爸爸妈妈和我。爸爸是名医生,他做事非常认真,同时也是个开朗幽默的人。他每天早晨要喝一杯咖啡,然后开车去上班。,爸爸有时喜欢喝酒,我很讨厌这一点,因为喝酒对身体不好。妈妈是名护士,她温柔善良,可以做各式各样好吃的菜。在我眼里,爸爸和妈妈是世界上最完美的组合。我是名大三的学生,我已经学了一年半日语,可是我还是觉得日语很难。我的爱好有很多,比如看电影听音乐。听音乐可以使我开心,忘记烦恼。所以我喜欢音乐。通过看电影我也可以学到很多东西。我的家离杭州很远,只能半年回去一次。我希望暑假快点来临,就可以见到亲爱的爸爸妈妈,我很想念他们。

私の家族は父、母と私の3人です。父は立派(りっぱ)な医者で何事(なにごと)にも真面目です。でも明るくてユーモアもあります。毎朝珈琲を一杯饮んでから车で出勤(しゅっきん)します。时々お酒を饮みますが、私はそれがちょっと嫌です。お酒は体に悪いからです。母は看护士(かんごし)です。とても优しくて、いろいろな种类(しゅるい)の料理を作れます。私から见て父と母は世界で最高のカップルです。私は大学3年生で1年半の间日本语を勉强しました。でもやはり日本语はとても难しいと感じます。私は趣味がたくさんあります。例えば映画を见たり音楽を闻くことが好きです。音楽を闻くことは気分が楽しくなって悩み事(なやみごと)を忘れることができるのでとても好きです。映画を见ることでたくさんの事を勉强することができます。私の実家(じっか)は杭州からとても远い场所で、半年に1度だけ帰る事ができます。父と母に会えるので夏休みが来るのがとても待ち远しいです。父母の事をいつも强く思っています。

我的兴趣是旅行,摄影,和唱卡拉OK。里面最喜欢的是摄影。摄影是受了父母的影响。父母的影响。以前只要我认为是美丽的东西或是有变化的东西马上就拿照相机拍摄下来。现在已经成为了一种毛病。周末休息经常去公园拍照。有花有树还有蜜蜂。还有拍小孩的照片。总算最近我把节约下的零花钱买了一台新的数码相机后,就想去旅游想的快要发疯了。拍更多的风景好的照片。 (私の趣味)私の趣味は幅広く沢山あります。趣味は旅行に行ったり、写真を撮影したり、カラオケをいったりすることが多いですです。特に写真撮影が一番好きです。写真撮影も亲の影响ですかね。昔から美しい物や、ちょっと変わっている物が目に入ったらすぐにカメラを向けてしまいます。もう、一种の病気ですね。ちょっとやばいかもしれません。土曜日と日曜日の休みの时间によくとります。公园へよく行きます。花と木をとります。花はいろいろな色があります。黄色い花と蜜蜂を一绪にとります。とてもきれいです。蜜蜂はとても立派です。わたしは小さい时、写真をたくさんとりました。最近、小さい时の写真をみつけました。小さい子供の颜は、とてもかわいいです。わたしはうれしそうな颜をしています。小さい子供の写真を撮るのが好きです。子供はとても活発です。つい最近またお小遣を节约して新しいデジカメを买ったから、もう旅行に行きたくてたまりません。景色がもっときれい写真が撮りたいです。 我的兴趣有很多,比如唱歌和跳舞等等(私の趣味は多いです、例えば歌と踊るなど)因为我喜欢唱歌,所以唱日语歌也很棒(私は歌が好きですから、日本语の歌も上手です)我也经常和朋友们一起去KTV,真的很开心(もよく友达と一绪にカラオケへ行くことがあります,これは本当に楽し)所以每次和大家一起去的时候,就是最棒的一天了(だから毎回皆とカラオケへ行く时、最高の一日でした)也喜欢日本的樱花哦,因为很漂亮嘛(日本の桜も好きだよ、美しですから)很多人都喜欢吧(たくさんの人も好きでしょう)也许以后我的兴趣会变更多(以后私の趣味は多いになっでかもしれません)我期待着)私は楽しみです)

篇四:考研日语作文范文26篇

考研日语(非日语专业)作文范例25篇

問題1

あなたは、外国の人があなたの国の母語で語りかけてきたとき、文法や言葉遣いが間違っていたら直してあげますか。それとも失礼になると考えて言わないでおきますか。 解答 直してあげる

私は間違っていたら直してあげる。

なぜなら、言葉の誤用に中には、相手の誤解を生んだり心を傷つけるような言い回しがあり、その不用意な一言のせいでコミュニケーションに障害が生じるとしたら、本人にとっても不幸だと思うからだ。

例えば、日本語の「あなた」という言葉は目上の人に使うと失礼になるが、欧米の人たちは誰彼の区別なく「あなた」を使う。それが初心者ならまだ許せるが、ぺらぺらしゃべる外国の人に「あなた」と言われたら、日本人は間違いなくむかっとするだろう。それは母語と関係しているのであり、何の悪意もないのだが、言われた日本人はいい気持ちがしない。こうした誤用は誰かが指摘してあげなければ、いつまでも直らない。

従って、異なる言語や文化を持った者同士のコミュニケーションが大切な時代には、自分が間違っていたら指摘してもらうし、相手が間違っていたら指摘してあげるといった率直さが美徳となると思う。

問題2

ある外国の人は「日本人は『はい/いいえ』がはっきりしないから、理解しにくい。日本人はもっとはっきり意思表示をするべきだ」と言います、あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。

解答 賛成する

私はこの意見に賛成である。

確かに日本人は「はい/いいえ」をはっきり言わない傾向がある。それは相手の気持ちを傷つけまいとする「和」の文化と言われるものだろうが、私たち外国人には賛成なのか反対なのか、好きなのか嫌いなのか、とても判断しにくい。

例えば、以心伝心とか、言葉を使わずに察しあう習慣は、日本社会のような同質性の高い同一民族社会では可能かもしれないが、私の国中国のように文化が異なり、言語が異なる多民族が暮らす社会ではほとんど不可能だと思う。きちんと意思表示しなければ、コミュニケーションが成立しないのである。今の日本も国際化が進んでおり、多くの外国人が住み、異文化間の交流が日常化している。そんな国際化時代には、はっきりとした意思表示や自己主張ができなければ、他人からも認めてもらえなくなるのではないか。

従って、私は日本人にはもっとはっきり意思表示できるようになってほしいと思う。

問題3

日本には昔からクジラの肉を食べる習慣がありますが、現在は食用としての商業捕鯨は全て禁止されています。あなたはこの商業捕鯨の一律禁止についてどう考えますか。 解答 賛成する

私は商業捕鯨の一律禁止に賛成である。

なぜなら、クジラは繁殖力が低いので、捕りすぎると資源の回復が遅いからであり、また、クジラは経済的価値が高く、商業捕鯨を一旦認めると、乱獲されやすいからである。 例えば、1946年に「国際捕鯨条約」が締結されたが、その後も乱獲が続き、クジラを絶滅の危機に追い込んだのは周知の事実である。捕鯨国代表は、カンガルーと同様に間引

きが必要なまでに鯨が増えているとし、商業捕鯨の再開を主張しているが、鯨の生息数に関して、科学的に確定した合意が得られているわけではない。また、捕鯨反対派に対して「食文化への干渉」と言うが、IWCが原住民の生存捕鯨を認めているように、食文化まで否定しているわけではない。乱獲を防ぐための国際的管理体制が確立されない状況下で、商業捕鯨が再開されることに反対しているのである。

従って、私は現状における商業捕鯨の再開に反対する。

問題4

「言語や宗教、生活習慣など、民族間の文化的な違いが生む確執こそ、現代の地域紛争を生む最大の原因である」という意見があります。あなたはこの意見をどう思いますか。 解答 反対する

私はこの意見に反対である。

なぜなら、現代の地域紛争は単に宗教や言語の差異から起こるのではなく、主に経済?政治的理由から生じているからである。

例えばパレスチナ問題である。「パレスチナ人」という民族概念もユダヤ人国家イスラエル誕生で土地を追われ、難民となった人々の共通の運命をてこに形成されたのであり、歴史的にも新しい事態である。それ以前のパレスチナでは多数派であるイスラム教徒と、少数派であるキリスト教徒やユダヤ教徒が住んでいたが、人々は宗教や民族の違いに関わらず、共存して暮らしていたのである。また、アフリカ各地で部族間紛争が頻発しているが、そもそもヨーロッパ列強がが植民地化のために諸部族や諸民族の暮らしを無視して、人為的に引いた国境線が原因となっている。

従って、文化や宗教の違いがあっても人々は棲み分けし共存してきたのであり、文化の違いが地域紛争を生んだのではないのである。

問題5

ごみ減量やリサイクルを促進するために、残飯や紙、プラスチック容器などの一般家庭ゴミの回収も有料化するべきだという意見があります。あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。

解答 賛成する

私は一般家庭ゴミの回収有料化に賛成である。

なぜなら、ゴミを捨てるのにお金がかかれば、市民もゴミの分別やリサイクルに関心をもつし、ゴミ減量にも目に見える効果が期待できるからだ。

例えば、家電ガミの回収の有料化によって、家庭から捨てられる家電は半減したし、家電メーカーでも使える部品を再利用して製品として再生するなどの取り組みが進んだ。同様のことは家電ゴミ以外でも起こると思う。食べ物を無駄にしていないかとか、使い捨てのプラスチック容器のように、使い捨てとなり、再利用が困難なモノを作っていないかなど、消費者からの生産現場への問題提起となり、リサイクル社会への移行が進むに違いない。確かに、家計の負担は増える。しかし、今までもゴミ処理費を税金として住民が負担していたことに変わりはなく、住民自身、その長短を考えるべきだろう。

以上の理由から、私は一般家庭ゴミの回収有料化に賛成する。

問題6

「地球温暖化を防ぐためにも、できるだけ自動車や電気を使わない生活をするべきだ」という意見がありますが、あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。

解答 人々の意識

私はこの意見に賛成である。

なぜなら、地球温暖化の最大の原因は、今日の「消費は美徳」とする大量消費型社会にあり、エネルギー浪費型の生活スタイルにあると思うからだ。

例えば、自動車がなければ本当に生活できないのか。クーラーがなければ生きていけないのか。極論すれば、それらはなくても生きていけるはずだ。しかし、水、空気、土地、太陽、植物といった自然が壊わたら、人は生きていけない。せめて、近くの移動は自転車を使い、多少の暑さ寒さに耐えるぐらいのことはできることだ。自然は有限であり、どこかで人類が欲望を自制することを学ばなければ、人類もまた恐竜の二の舞になるだろう。この地球には、60億人を越す人類が、先進国並みの消費生活を享受できるような余地はないのである。

従って、私は未来の子孫のためにも、可能な限り車や電化製品に頼らない生活をすべきであり、資源リサイクル型社会を目指すべきだと考える。

問題7

最近、電子辞書が普及していますが、あなたは外国語を学習するとき、普通の印刷された辞書と電子辞書と、どちらが勝っていると思いますか。

解答 普通の辞書

私は外国語の学習には、印刷された普通の辞書の方が勝ると考える。

なぜなら、単に意味を調べるだけなら電子辞書の方が便利だが、言語学習には語彙や例文を覚えるための練習があり、そのためには下線を引いたり、メモしたりできる辞典の方がいいと思うからだ。

例えば、外国語を学ぶための教材に電子教科書が使われないのは、言語習得には手で書いたり、声を出して反復したり、教師の説明をメモしたりと、様々な作業が必要だが、電子教科書ではそれができないからであろう。また最近、電話番号を記憶させておける携帯電話が普及したために、人は相手の電話番号を覚えなくなったと言われるが、同様のことが外国語学習でも言えそうである。人は易きに流れるものであり、便利になればなるほど、機械に頼り、覚えたり考える努力をしなくなるものだからである。

従って、言語学習には、日々の努力の跡がまざまれる普通の辞書の方が勝ると思う。

問題8

ある人は、「子供に悪い影響を与えるテレビ番組は、法律で規制するべきだ」と言います。ある人は、「表現の自由を侵害することになるので、テレビ番組を規制するべきではない」と言います。あなたはどちらの意見に賛成しますか。

解答 規制すべきだ

私は、「子供に悪い影響を与える可能性のあるテレビ番組は法律で規制すべきだ」という意見に賛成する。

なぜならば、テレビの番組は、見たい人だけが足を運ぶ劇場や映画館とことなり、誰もが見る可能性がある自宅に、一方的に送られてくるものだからである。露骨なベッドシーン、残酷な暴力シーンなど、明らかに子供に有害と思われる番組が、野放しにされているのは好ましいことではない。

「殺人者をテーマにした番組を見た子どもが、全員人殺しをするわけではない」が、犯罪行為を英雄のように描く番組や、暴力礼賛のような番組が、子供たちに何の悪影響も与えないと断言できるのだろうか。また、正しいかどうかを疑う確かな目が、まだ養われて

いない子供には、発展段階に応じた情報や内容が提供されるべきだろう。

従って私は、子供に悪い影響を与える番組を規制することは、子どもたちの健全な感受性を養う上で、必ずポラスに働くと思う。

問題9

将来、学生はコンピュータなどの情報機器を使った在宅学習か、従来通り学校に通って受ける学校教育かを自由に選択できるようになるでしょう。その場合、あなたはどちらを選びますか。

解答 学校教育

私は学校教育を選ぶ。

なぜなら、共通の学びの場である学校という集団生活の中でしかできないことがあると思うからである。例えば、友との交流や、クラスのみんなが力を一つにして何かを実現する喜びなど、自宅に引きこもっていただけでは味わえないことである。

確かに今日の学校では、いじめ、不登校、暴力などの様々なことが起こっている。私自身、学校の勉強が楽しいわけでもないし、学校という集団生活の中では、煩わしいこともあれば、自分の思い通りにならないこともある。しかし、人は一人では生きていけないし、人との関係に中でこそ喜びもある。また、学校といういろいろな個性が出会い、集団で生活する経験を通して、私たちは実社会で生きる力を身につけるのではないだろうか。これらのことは、ひとりでパソコンに向かい在宅学習をしているだけでは、決して学ぶことはできない。

以上が私が学校教育を選ぶ理由である。

問題10

あなたは、情報源として、新聞とテレビと、どちらの方が信じられると思いますか。どちらかと選んで、あなたの意見を書いてください。

解答 新聞

私はテレビよりも新聞の方が信用できると考える。

なぜなら、新聞は速報性よりも、事実を正確に伝え、解説することを目的としているからであり、テレビよりも感情や過剰な脚色を交えぬ報道ができるからだ。

例えば、アメリカの同時多発テロ事件の報道にしても、テレビではアナウンサーが絶叫し、センセーシュナルに報道していたが、映像や音声があるおかげで臨場感はあるものの、実際の被害はどうなのか、どうしてこのような事件が起こったのかなど、冷静になって知りたいと思う、やはり翌日の新聞を読むことになる。やはり、文字を中心とする新聞の方が、活字化するという作業の中で言葉が選ばれ、事実や論評げのチエックが働くからだと思う。確かに、新聞にも誤報がないわけではないが、テレビのように視聴率を稼がんがための演出や「やらせ」が少ないぶん、信びょうせいも高くなる。

従って、私はテレビよりも新聞のほうが信用できると考える。

問題11

日本では学校教育法(第11条)で体罰を禁止されていますが、「ケースによっては、体罰が必要なこともある」と主張する人がいます。あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。

解答 反対意見

私はこの意見に反対である。

なぜなら、体罰というの外からの強制であり、このような他律的な強制力では自覚的規律の育成は不可能だと考えるからである。

例えば、これは実際の話であるが、学校でいじめ事件が発生し、いじめた者たちを生活指導の教師が体育館に何時間も正座させ、姿勢が崩れた者を竹刀で打つという体罰を加えたことがある。それで、いじめがなくなったかというと、結果は全く逆であり、よりいじめは陰惨となり、巧妙となった。体に傷が残らないようないじめが、訴えた生徒に加えられたのである。この一例を見ても、体罰が有効でないばかりか有害であることがわかる。 私は教室で騒いだり、喧嘩をした生徒を教室に立たせたり、運動場を走らせたりする程度のことまで体罰とは言わない。しかし、一旦制度として体罰が認められれば、それが過剰に行使される危険の方が大きい。

従って、私は体罰を認めることに反対である。

問題12

「今の大学入試制度を廃止し、一定の成績で高校を卒業した学生には誰でも大学進学の資格を与え、卒業を厳しくする方式に変えていくべきである。」という意見があります。あなたはこの意見に賛成しますか、反対しますか。

解答 反対意見

私はこの意見に反対である。

なぜなら、競争こそ進歩の原動力であり、努力した者が報われ、能力のある者がよりその能力を磨けるいい大学に進学するのは当然の権利だと考えるからだ。

例えば、大学が成績の善し悪しを基準にしないで、誰でも学生を受け入れるとしたら、大学ではその水準に合わせる授業が必要となるため、授業レベルは低下し、学習意欲も高く能力もある学生は犠牲にされることになる。中高生たちは、「勉強は大学に入ってからでもいいさ」と怠けるようになるのではないだろうか。安易さは堕落を生む。

この競争社会では安易な道はない。勝ち残るためには努力が必要なのである、それは、中等教育でも大学でも、そして社会に出ても、連続的に続くプロセスなのである。むしろ、受験競争を悪としたり、能力主義を否定したりする戦後学校教育の悪平等主義こそが、教育荒廃を生んだと考える。

従って、私はこの意見に反対である。

問題13

規則は厳しいが、有名大学への進学率が高い受験重視の学校と、進学率は余りよくないが、規則は緩やかで子供の自主性を尊重する自由な学校があるとします。もしあなたが親なら、自分の子供をどちらの学校に通わせますか。

解答 自由な学校

私なら、子どもの自主性を尊重する自由な学校に通わせる。

なぜなら、人間にとって幸せとは、いい大学を卒業して、一流企業に就職し、高い地位につくことにあるとは限らないからである。

例えば、ラーメンづくりに情熱を注ぎ、少しでもおいしいラーメンを作りたいと日々努力している人は、大会社の社長や大学教授よりも不幸せだと言えるだろうか。豪邸に住む人々が、平凡なサラリーマン家庭よりも幸せだと言えるだろうか。

人は強制されて何かをしているとき、幸せを感じはしない。また、人は自分自身が選んだ好きな道に打ち込むことを通してしか、自分の能力を開花させることはできない。それはこども自身がつかみ取るものであり、親が自分が望む「幸せの形」を押しつけるべきで

篇五:日语作文30篇

私の梦

かつて、ナポレオンが「将军になる考えがない兵士はいい兵士じゃない」と言いました。そのとおり、梦がない人生は人生ではありません。

子供の时から、亲や先生や友达などいろいろな人が「あなたの梦はなんですが」と闻きました。理の当然で、人々がさめざまの梦想を持っています。私も梦がたくさんあります。

小学生制になった时、クラス担任はとても优しくて、若い女性でした。みんなだいすきでした。彼女は数学を教えてくださったので、私は

一生悬命顽张りました。长い时间を使って、ひとつの难问に回答した後の気持ちはとても高扬していました。心から数学の教师にならたいと思いました。両亲も喜んで忚援してくれました。

12歳、中学校に入りました。その顷田舎の家の近くで伝统的な芝居がはやっていました.祖母も好きで、周末一绪に见に行きました。そして、私はだんだん、その芝居に梦中になりました。时々、真似たり、一人で歌ったりしました。何时でも。何処でも、音楽が闻こえると、特别な感铭がありました。

いつの间にか、俳优になりたいという考えが出てきました。私は音痴ですから、両亲に知らせると、「白昼梦を见るじゃないよ」と言われました。今思えば、当时は思春期だったからなのか、悲しいことに自分の考えに固执しました。 时间がはやくたちました。瞬く间にもう大学生になりました。今、専门が日本语の私はまた一つの梦があります。その梦とは外资企业に勤めることです。通訳でも翻訳でもいい出です。

そうすると「将来はなにをする?数学を教える?それに俳优になる?あゆいわ日本语に関して仕事をやる?」といろいろな问题が思い出されました。あれこれと思いを巡らすと、难しいですね。答えはなかなか出てきませんでした。 ところが、そんな梦がたくさんあるので、生活が面白い、目标に向かってまい进する力が强いです。梦は多ければ多いほど実现する机会も増えると思います。一つの梦が破れても、また别の梦を追うチャンスがあるからです。

さっきも言いましたように、梦を持つと问题が出てくることは否定できません。ですが、やはり、私はこれからも梦のある美しい生活を大切にしていきます。

「私の梦」(日本人は理想よりも、梦と言う言叶を使っていると思いますので。)

私はまだ子供のころ、空を见上げることが大好きでした。青々と広がっている空を、ふわふわしている云が、のんきそうに漂っていくのを见て、心が愈されるような気がします。

ですから、私はそのとき、「将来パイロットになりたい」と心で决めました。飞行机にのって、鸟のように、空を、云の间を缝いでいくことを、すばらしく思っていました。头が空っぽになって、すべての悩みが忘れられるようなので。

まだちっちゃいので、パイロットになるために、どうしたらいいのかまだ考えていませんでした。その后、パイロットはみんな2.0以上の视力がなければならないと闻いて、近视眼である私はただ、空しく叹くしか、しようがありませんでした。 高校に入って、私はサッカーに兴味を持ち始めました。サッカー选手たちが、竞い合っている姿に、私は惚れていました。あのスピード、パワー、テクニック、あれこそが、男のあるべき姿ではないかと、私は思いました。そして同时に、新たな梦が私の心に芽生えました。それは、「中国一のゴールキーパーになって、中国チームを世界の顶点に送るのに、私は自分の力を捧げたい」と思いました。しかし、それには、身长が必要です。1.80ちょうどの私には、中国一は无理だったのかもしれません。大学に入って、身长がほぼ固定された私の新たな梦は、无残にも破られてしまいました。 日语

大学では、日本语を専攻しました。正直、初めの顷は、梦なんて、まだ见つけていません。目の前の道をただ走るのみ、そこには私の梦とか、意志とか、ありませんでした。勉强していく中で、ちょっとした问题に気づきました。それは、必死に勉强している人ほど、成绩が低く、ということでした。そのとき私はこっそり考えました。実は彼らは努力が足り

ないってわけではありません。努力の方なら、私なんかより、ずっとたくさんしていると思います。残念なことに、彼らは勉强の仕组み、つまり勉强の方法を知らないだけに、こういう「空振り」の学习を缲り返しているです。そこで、私は「将来日本语の教师になって、知识だけではなく、勉强の仕组みを、御绍介させていただきたい」という、梦を持つようになり、そして今までに至っています

私の趣味はスポーツをやる事です。色んなスポーツ中にサッカーが大好きです。普段尐なくとも周に1回やっていました。最近、勉强忙しいですから、なかなか暇な时间が取れなくなりますので、殆どやっていませんでした。でも、サッカーのことを関心しております。毎周必ずスポーツ新闻を読みます。ちょっと残念ながら、最近、中国のサッカーチームは国际试合で全灭になりそうだ。

我的兴趣1

我的兴趣是运动。在各种运动项目中,我最喜欢的是足球。平时至尐一周打一次。最近学习比较忙的缘故,抽不出空余时间,几乎不打了。但是,很关心足球的新闻,每周的体育报肯定会去看的,有点可惜的是,最近中国队在国际比赛项目上好像全军覆没。

私の趣味2

仆の趣味は音楽鉴赏でございます。もちろんポピュラー音楽が大好きですけども、普段にクラシック音楽もよく聴きます。いつも部屋で音楽を聴きながら、文章を书きます。もし、何か悩んでいることがあれば、好きな音楽を聴いて気持ちが落ち着けます。

我的兴趣2

我的兴趣是音乐鉴赏。当然了,我最喜欢的是流行乐,但是平时我也经常听听古典音乐。平时都是在屋里一边听音乐,一边写文章。如果有什么烦心事的话,听听自己喜欢的歌,心情可以平静下来。

私の家庭

私の家は 三人の家庭です. お母さんとお父さんと私です.

私の母は 病院の看护妇です. 毎日 八时に 病院へ 行きます, 午后 六时に 家に 帰ります. 母は 中华料理が とても 上手です.

私の父は 大学の先生です. 化学の専门を 授业しています. 本を 読むことが好きで,テレビが 好きないです. 私は 大学の学生です. テレビを 见ることが 好きで, スポツが上手です.

私の家庭が 楽しい 家庭です. 私は 父と母と よく 一绪に 游びに 行ったり, 山を 登ったりします.

日语作文我的家乡

私は上海に生まれました。故郷は上海だと思います。上海は中国の中では、最も都会らしい都会です。上海には名所名迹が尐ないが、中国最大の商业、工业、港湾地帯として特徴づけられている。

今、上海の人口がもうすでに1250万人を超え、世界一のマンモス都市となった。改革开放によって、上海が大きく変わりつつある。毎年上海に帰省するたびに、その発展ぷりに惊き、上海の一员として、夸りと喜ぴを持っている。

上海は长江の单侧、支流の黄浦江の西侧に拓かれた街だ。今世纪の初めに黄浦江西侧のバンドと呼ばれる地区は、港湾设备が整备され、その周辺に各国の租界か集中されていた。上海はまた「冒険家の楽园」と呼ぱれ、このバンドは国内だけでなく海外でもよく知られており、観光客が必ず访れる所となっている。バンドは上海?シンポルとも言え、

バンドの周辺に立ち并ぷ建物はそれぞれ风格を持ち、「万国の建筑物」と言われる。

バンドの近くから始まり、市中心まで伸びる世界でも有名な单京路がある。东京の银座より人がいっぱいで赈やかである。单京路にある第一百货店は毎日20万人ほどのお客さんを迎え、祝日になると30万人を超えるほどだ。

さらに、夜のバンドと单京路はまた格别だ。ネオンサインがまぷしいほど辉き、日本人は上海の夜景を「亓つ星」と绝賛している。

谁にも故郷がある。故郷を离れれぱ离れるほど故郷が恋しくなるのが人情だと思う。上海に帰る回数が増えれぱ増えるほど恋しくなる私の大好きな上海である

私の家族

私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。 父、母とかわいい私です。

父は见るのがちょっと厳しいですが 実は日常の生活中に 时々人に笑われることをします。母はふだんにぶつぶつ言うことがありますが 私と父に対して母はいないと 生活ができない人です。

私は 幸せな家庭があって 未来 両亲は私に対して 最重要な人です。

私は父と母を爱しています。

十一黄金周

もう终わったこの十一の节句は私に対して いい休みを过ごしました。1日は亲戚のうちへ游びに行きました、2日は中学校の友达と一绪に歌を歌いました、3日は両亲と一绪に买い物に行きました、4日は日本语の授业をしました、5日の午前中大学のクラスメートと一绪に卓球をして 午后ゴルフをしました、6日はもっと多いクラスメートと一绪にスキーに行きました、8日の学校へ通うことを迎えるために 7日は一日中うちでゆっくり休みまして 本当に充実しました。

「泥雤」

今年の夏に单京では、不思議な「泥雤」は二回があった。不思議な「泥雤」というのは、普通の程度の灰雤ではなくて、生まれて初めて見た、すごく多くの土砂を混じえた雤なのだ。

一回目は夜のことだった。朝、起きてから、ベランダでは、干された洗濯物はみんな斑になっていたのに、多くの单京人がびっくりした。

二回目は、午後のことだった。その日の午後、スーパーへ買い物に行った私は、帰りに、空は急に黄色くなったのに気がつくと、大雤が降り出した。私は道端の店へ急いで、雤宿りできたが、自転車にのる人たちはた

日语作文

いへんひどい目に会った。あっという間にほとんどの人は「縞馬」になってしまった。

翌日の新聞によると、「西部の内マンゴルのほうからの影響だ。」ということだった。なぜかそんなに多くの土砂はここまで運ばれてくることができたのか。ちょっと疑問を抱いた。

八月の末に、大学の「西部考察団」に参加して、西部環境を調べてきた友達にこう言われた。「西部は、もう人間の想像できる限り以上破壊された。」それで、いろいろな写真を見せてくれた。その中に、いくつの写真は土の色を背景として、二三本の木が混ざった広々としたばかりの空き地だった。「二十年前にここは森だったのに、」彼は言った。

私は無言だった。答えはここのだ。森林を無闇に乱伐して、砂漠化の拡大を招いたのだ。いや、もっと考えられるのは、その森林破壊は西部にあるだけではないだろう。そうではなければ、なぜかその土砂は遠く東にある单京にまで運ばれたことができたのだろう。それは、森林破壊からの砂漠化の拡大によって、多くのところは不毛の地になってしまい、土砂を混じえた大風は起こされ安くなって、また、一部分の土砂は気流運動に乗って、途中で余り阻止がなっかたから、大きな顔をして、都市まで来られて、「泥雤」に変わったわけだ。

森林破壊はこうした土砂を混じえた「泥雤」をもたらすのであるばかりではない。空気にある二酸化炭素の効率よく循

環ができなくなって、地球温暖化をも招くのだ。

現在のような「泥雤」は、今度と来ないように、根本的な対策は森林の保護しかないといっても過言ではないだろう。 これは国を挙げた大問題だから、全国民の努力が必要であろう。いろいろな法律や規則や方案の制定などに取り組まなければならない。でも、尐なくとも、みんなはできるだけ木の代わり品を使い、積極的に植樹運動に参加すれば、きっと、早く天然の「自然の雤」が迎えられるだろう。

中国の学校教育から、考えていくこと

「中国新聞社」によると、今年の1月、夕飯の後、ちょっとテレビを見たいが、母親に止められて①、又今学期ではクラスの前から10番以内に入ってくれ、と強く要求された徐力という中学生は、母親との口論②中に、ハンマーを持ってきて、母親を殴り殺したそうだ。

又、8月、八歳の王(北京)という小学生は、宿題を済まさずに、うそついたという原因で、母親に何時間もたたかれて、腎臓衰弱になったそうだ。

このような問題にたいして、誰でも平気で見ていられない③だろう。もっと考えると、問題は「点数」を中心とする教育制度にあるではないだろうか。中国の教育制度について、反省しなければならないだろう。

というのは、中国の教育制度は、「試験制」を土台として作られて、ただ点数の高い人が大学に入れるというシステムだから、学生たちは、大学に入るために、子どもの時から、先生や親たちに「おまえ、死にもの狂いにがんばなきゃ、大学に入れないぞ。」など④、耳にたこができるほど、( よく )⑤言われたりして、勉強に厭きるのは当然だろう。

教育の問題は、現在、上は国家から、下は地方まで、たいへん重視され、多額の資金が導入されているのである。国家統計機構によると、現在から、2010年までに、我が国の大学入学率は9%から15%に上がる見込みだそうだが、人口が12億に超えた発展中の中国にとって、確かに、目立つ進歩と言えなければならない。

しかし、中国の国情に「お粥が尐ないが、御坊さんが多い」㈠という点があるので、いくら国家·地方、社会から、教育に資金を投入しても、限度がある。また、多くの学生にとっては、大学なんて、ただ夢としか見えないだろう。

したがって、別の方法を考えなければならない。キャンパスが狭い、先生が足りないとか、学校の容量はもう満杯になっている。それは確かに今存在してしる⑥事実である。でも、もう二つの事実がある。それは、今年の統計によると、中国の都市における住民の電話所有率は30%に超えたし、農村でも20%に近いそうである。もう一つ、中国のインターネット使用料金はどんどん安くなっているし、インターネットのユーザーもぐんぐん伸びる一方だ。ということである、これらのことを考えると、中国で、インターネットで、ネット大学を実施するのが可能と言えるだろう、いや、必要があるのだろう。

政府と有名な大学によって、ネット大学を創立し、一定の点数を取った人に国家認可の学歴を配るのである。学生は自分の能力によって、自由に勉強する。E-mailとか、ICQとか、テレビ会議などで先生やほかの学生と交流する。もちろん、定期的に実際会って、コミニケーションしてもいい。

こんなことができたら、尐なくとも、いまの「千軍万馬が丸木橋を渡る」㈡に圧力を緩めるということであろう。また、身体障害者に福音をもたらすといえるのであろう。

ネット大学のシステムの設定·管理のために、いろいろな方面も考えなければいけないことは言うまでもない。みんな

で、一緒に努力すれば、できるであろう。 人間とは何か

東西の人間観

人間とは、一般には人界に住むもの、すなわち動物および神と区別する語である。アイヌ語で「アイヌ」とは人間のことであり、他民族との接触がないなかで、自らを「アイヌ=人間」と呼んだのも自然なことである。古今東西にわたり、「人間とは何か」については古来多くの思想家が論じた。そこでは、人間が動物の一種であり、直立二足歩行し、道具を操ることは自明の事実であり、それ以上の特性をもって「人間とは何か」を規定しようとしたのである。

東西の人間観

【 西洋の人間観 】

古代ギリシャでは人間の特徴を理性に求めたが、その代表者はソクラテス、プラトン、アリストテレスである。スウェーデンの生物学者リンネ(1707~78)が人類をホモ-サピエンス(賢明な人間)と名付けたのも、ギリシャ思想を受け継いだヨーロッパでは、言葉を操り、論理的に思考する能力を持った存在としての人間という見方があったからである。 「知は力なり」と自然の因果関係を正しい知識でとらえるとき、技術を生み、自然を支配し人類の幸福が増進されると主張したベーコン(1561~1626)や、「人間は考える葦である」として、思考の優越性を説いたパスカル(1627~62)など、この人間が自然界の主人であるという対自然の考え方が、ルネサンスを経て産業革命というヨーロッパの近代につながっていったのである。

それ以外にも、道具を作り操ることに観点をおいた「工作人」、言葉に求めた「言語人」、宗教に求めた「宗教人」、根元的な生の営みを遊びにとらえた「遊戯人」などの緒論があるが、いずれも人間の特性の一面を物語っている。

しかし、人間は飢餓や戦争といった極限状態になると、人肉も食べ、殺戮も平気で行う利己的な存在であり、「人間ほど残忍な動物はいない」とも言われる。人間は「食肉類の特性をもつ霊長類」とも言えるのである。

【 インドの人間観 】

古代文明の発祥の地、インド、中国でも、「人間とは何か」について多くの思索が行われた。古代インドのバラモン教の聖典を「ベーダ」と言うが、その解釈の中から自然と人間の考察が深められ、「ウパニシャッド(奥義書)」が作り出された。「ウパニシャッド」で確立された業?輪廻転生?解脱の思想は、インドの思想?文化の中核となったばかりか、仏教とともにアジア諸民族に深く広い影響を与えている。インドのヒンドゥー教もバラモン教の教義に土着の民間信仰を吸収して大きく変貌したものを指している。そして、ベーダの神々の中には、帝釈天や弁才天のように日本で今日でも崇拝されているものもある。

古代インドの考え方は、「人間は苦なる存在」ととらえる点にあり、それを前世で行った行為(=カルマ、業)ととらえるバラモン教、いろいろな欲望に執着する心(=煩悩)と考える仏教という違いがあるが、宇宙の普遍的な真理<バラモン教では「ブラフマン(梵)」、仏教では「ダルマ(法)」>を悟ることで苦から解放されるとする点は共通である。

つまり、人間を「知情意」を持つ存在と言うなら、「人間とは何か」について「知=理性」に求め、自然の因果関係を知り技術の発展させることに人間の幸せを求めた西洋と、「情意」の世界に求め、「知」ではなく自然の因果関係を悟り(=解脱)、自然と一体化すること(=梵我一如)で人間の幸せを求めたインドという違いが浮き上がってくる。

【 中国の人間観 】

古代中国についてみれば、それは「天」の思想に行き着く。この「天」 とは自然界の秩序や法則であり、やがて人の心に内在する道徳を意味するようになる。これをはっきりさせたのは孔子である。その後、孟子の性善説、荀子の性悪説という議論を生むが、人間の心に備わる善への可能性を否定したものではない。孔子後で言えば、無差別平等の兹愛を説いた墨子、無為自然、この世のものは差別なくすべて等しい価値を持つ(=万物斉同)と説いた老子?

字数作文