作业帮 > 体裁作文 > 教育资讯

日本夫日记

来源:学生作业帮助网 编辑:作业帮 时间:2024/11/17 20:35:13 体裁作文
日本夫日记体裁作文

篇一:一个普通日本士兵的战地日记

一个普通日本士兵的战地日记

《荻岛静夫日记》是二战期间,一个普通日本士兵荻岛静夫在战事间隙记载其在中国战场的大事小情。日记本是战争时期日本国内专为前线军人制作的一种只有小孩子手掌大小的本子。附页上有军人守则,常用汉语对照,伪满洲国的地图以及我国南方几个省的地图等文字图案。日记一共有七本,还附带一个影集,是十分珍贵的历史资料。

荻岛静夫是个普通的日本士兵,他是在淞沪会战时期应征入伍的。他深情地记载在侵华战争中死去的上级军官和战友,把他们称为英雄、勇士;他用平静的毫无感情的语言描述用俘虏练习刺刀、烧毁村庄以及进入市镇后为了逼迫当地人做维持会长而杀掉一些人的事情;他快乐地描述慰安所,似乎那些可怜的女人们只是一些商品而已。

这个日记可以颠覆一些传统的观念,比方说:很多写抗战史的人习惯于说国民党军队打不过日本军队的主要原因是武器装备太差。从日记中记载的淞沪会战可以看出,当时的国民党军队使用的重武器并不少,而且给日军造成了十分惨重的打击。日记中写道:“在敌方堡垒等坚固防御阵地发射的自动火器十字交叉火力的袭击下,有人相继倒下… …刚才因为遭到敌人迫击炮的袭击,第五中队的一个分队全部牺牲… …九日早晨,在敌军的反攻中,加纳部队也遭到被全部歼灭的悲惨命运。整个联队只剩下两三百人了,死者的遗骸散于泥泞的田野中。看到身边发生的一切,心中油然而生的只有等死的悲伤。”可以看出荻岛静夫叙述这场战役的时候,情感是十分沮丧的。这些文字说明当时国民党军队的武器并不差,武器并非主要的失败原因。

有些人在描述抗日战争时,习惯于说国民党军队都是在正面战场和日军作英勇顽强的战斗,而八路军只会打游击。日记中记载了三场大战役,淞沪会战、徐州会战、武汉会战。从日记中可以看出,淞沪会战时,日军伤亡是比较大的,但此次战役之后的荻岛静夫再也没有遇到过什么大规模的像样的抵抗,他记载道:“所到之处敌军总是逃跑,不知道这次碰到的敌军会不会逃跑。”看来如果国军不是总逃跑,日军也不会那么容易就攻克一座座城市。

荻岛静夫对于这场战争的描述一直使用的是“为了国家的利益”,他始终认为自己参加的这场战争是正确的,自己是为国而战的勇士。这种思想正是多数日本人的思想,他是个普通的农村青年,入伍前应该进行过很彻底的军国主义教育,他们很狂热,为了他们的天皇,为了他们的国家。

我们都知道,如今日本的历任首相为了争取更多的选票一而再再而三地挑衅中国人的忍耐极限,不正说明,这种狂热的思想在日本是深入人心的吗?为什么参拜靖国神社可以争取更多的选票?为什么叫嚣钓鱼岛是日本领土可以争取更多的选票?原因只有一个,多数日本人是支持这种令中国人反感的行为的。

反观我们,我们是否对日本人的这种狂热有正确的认识呢?

看历史不能只看史官们记载的历史,老百姓的日记虽然是从个人角度管窥历史,但是能够综合地多看一些,就能对历史有更多角度的认识。

以上凡此种种,只是记录一些点滴感想,如是而已。

王文娜

篇二:日本语日记

日本語日記

2011年4月27日

人生に対する感想 日系会社に入って以来、日本語を勉強している。日本人の仕事方法と考え方、例えば、事前計画、事中チェック、事後まとめなど、いろいろを勉強した。

しかし、最近はちっとう厳しくなって感じている。仕事は長くなって、自分の理想とか、前途とか、夢とか、全然忘れたみたい。このような生活は怖いじゃないか。

でも、この世界、大部分人間は普通な人間です。成長、勉強、仕事、恋愛、結婚、子供を持つ。私は普通な人間だと思う。でも、将来アップする生活のために、他の人より、もっと頑張ってでしょう。とにかく、夢がない人生は希望がないでしょう。

明日も続けてがんばって、よくよく。

最初は上司の指示で仕事を開始します。速やかに、落ち度なく指示を受けることは大変難しいことですが、基本を守りつつ、意識して指示を受ければ案外うまくいくものです。

指示は正確に聞きます。指示を受けるときは、次の八項目に留意すること。

1.上司に呼ばれたら、すぐに聞こえる声で「ハイ」と返事をし、

メモ用紙と筆記用具を用意して上司の席に向かいます。

2.上司の席の前では軽く会釈をし、上司に向かって一歩左側に、

背筋を伸ばして正しい姿勢で立ちます。

3.指示はメモをとりながら最後まで聞きます。

数字、固有名詞、人名などはとくに正確に聞き取る。

4.指示をよく理解します。

5.質問は、指示が終わってからします。

疑問点や理解の及ばない点があったら、上司の説明が一通り終わってから確認します。

6.指示を復唱します。

7.今やっている仕事と日時の調整がつかない場合には、自分で勝手に判断せず、

上司に申し出ます。安請け合いは失敗のもとです。

8.直属上司以外からの指示は、直属の上司に報告してから了解を得ます。

これは、仕事の流れを乱さないために特に大切なことです。

●報告

----早め、簡潔、正確に報告する

信頼されるビジネスマンの条件は、”仕事にとどめをさす”ことです。仕事の結果や問題点など、上司に伝えるべきことをきちんと、報告することが、上司の信頼を勝ち取る早道です。

1.指示した上司に直接報告します。

2.タイムリーに、こまめに報告します。

3.「結論」→「理由」→「経過」の順に報告します。

4.事実と意見は、はっきりと区別します。ありのままの事実をさきに述べ、

自分の意見や感想は、あとから一言断って述べます。

5.内容が複雑な場合は、適切な資料を添えて上司が理解しやすいようにします。

6.報告内容の緊急度は、難易度、重要度によって、口頭で報告するか、

文書で報告するか方法を選択します。

?口頭報告???急いでる場合、ごく簡単な内容の場合。

?文書報告???複雑な内容、記録に残しておきたい内容、定期的な報告など。

報告で肝心なのは、うまくいっていることよりも、うまくいっていないことや、困難な問題などです。

問題が起こった場合、トラブルが大きくならないように、早めに報告します。

发表于: 2004/06/24 08:29am

●メモ(記録)

----いつもメモ帳をもって仕事をする

その場の指示や会話をメモに残す習慣をつけることが、とりわけ若いビジネスマンのみ

なさんには大切なことです。

★何をメモするのか?

1.会議に出席したら、会議で話し合われたことや、決まったこと、指示されことをメモ

にとります。

2.課の中で打ち合わせやミーティングがあったら、その内容をメモします。

3.上司によばれたときは、メモをもち、指示、連絡の内容をメモします。

4.仕事で外出したり、得意先を訪問したら、用件をきちんとメモします。

5.誰か他社の人が訪ねてきたら、その人と話した内容を簡単にメモします。

6.新聞を読むときは。メモ帳を横において読む。自社の記事、同業他社の業界の動き

が 出ていたら、簡単にメモしたり、切り抜いておきます。

メモをとっておくと必ずあとで役立つものです。営業日誌や業務日誌を書くときも、メモ

があれば書きやすいでしょう。

●時間感覚

----時間厳守はビジネスの基本

ビジネスマンは、時間にルーズであってはなりません。時間感覚のない人間はビジネスでは信用されません。学生時代の生活は、どちらかというと時間的に制約されることは少なかったことでしょう。しかし、企業人になったからには、組織の一員としての自覚のもとに職場の規律を守り、時間を守って行動することが求められます。

★ 早めに出社

1.ビジネスマンのスタートは、朝の出勤から始まります。定時の5分前には着席して、 仕事のできる体制を整えます。早めに出社すると気持ちに余裕ができ、それだけスムー ズに仕事をすすめることができます。

2.着席したらその日のスケジュールの点検、確認をします。とくに会議、来客、他社へ の連絡など、約束の時間を忘れてはいけません。

★ 退社支度は就業時間が終わってから

1.机の上を整理整頓して退社します。

2.重要な書類は、所定の保管場所へしまいます。

3.翌日の業務内容を確認しておきます。

4.翌日、外出や出張の場合には、上司にその旨を報告し、行き先表示板に明記しておき ます。

5.最終退社の場合には、消灯、火気、各種機械の電源、施錠などの確認をチェックリス トにしたがって確実に行います。

顶部

发表于: 2004/07/22 09:34am 赵艳利

●休暇?欠勤?外出

----日頃の勤務態度が問われる

【休暇?欠勤】

1.事前に上司に了解を得ておきます。(仕事の繁忙状況も考慮します。)

2.突然、出社できなくなった場合、始業時までに上司(不在時は同僚)に連

絡します。

3.場合によっては(早朝や緊急時など)、上司の支度へ連絡します。

4.長期間にわたる休暇の場合には、自分の連絡先を上司に申し出ておき

ます。

【直出(職場以外の所へ直接出勤)するとき】

1.あらかじめ上司に報告し、了解を得ておきます。

2.前日、行先表示板に、行先と帰社予定時刻を明記します。

【直帰(職場以外の所から直接帰社)するとき】

1.あらかじめ上司に報告し、了解を得てます。

2.行先表示板に、行先と直帰の旨を明記します。

3.外出先での業務終了時には、職場に連絡します。

【外出するとき】

1.上司が知っている要件で外出するときでも、必ず「○○の打ち合わせで

○○へ行って まいります」と報告し、行き先と帰社予定時刻を行先表示

板に明記します。また同僚 にもその旨を伝えます。

2.最低、半日に1回は職場へ連絡を入れます。

3.予定変更のときは、必ず職場へ連絡を入れ、行先表示板も書き直してもらいます。

?帰社時間が遅れるとき

?他へまわるとき

?外出が途中で取りやめになったとき

こうしておけば、電話や不意の来訪者があっても、

「すみません、あいにく○○は外出中です」ときちんとした対忚ができます。

顶部

发表于: 2004/09/21 04:17pm zhoucf

赵老师:非常感谢!您辛苦了

顶部

发表于: 2004/10/21 11:21pm 三浦忠

趙先生、以上の内容をまじめに拝読しました。

私が1/3もちゃんとやってないので、恥ずかしいと思います。

「これから改善していかないとあかんわ」と思いながら、指摘されたことを受入れます。ですけど、その要求事項を全て守ると、ダルイじゃないんですか。

三浦 忠

顶部

发表于: 2004/11/02 01:42pm 赵艳利

●公私の区別

----けじめをつける

公私のけじめがはっきりとできない人が、ビジネス社会で失格者となるのは当然のことです。

企業人としての自覚は、公私の区別から始まると言ってもよいでしょう。公私の区別がつかない人は、いかに能力があっても脱落します。上司の了解を得ないで、就業時間中にプライベートな行為をしてはなりません。 また、会社の備品などを私物化することはもちろんいけません。

【私用の外出は厳禁】

私用の外出は休憩時間にすませます。通院などの場合でも、なるべく休

憩時間を利用するのが望ましいでしょう。しかし、やむを得ない場合は必ず上司に申し出て、許可を得てからにします。

【友人が突然私用で尋ねてきたら】

休憩時間か退社後に会うようにします。大切な友人を追い返すようで勇気のいる判断ですが私用で席をはずすことはいけません。事情を丁寧に説明して理解を得るようにしましょう。

【私用電話はかけない】

1.私用電話は、必ず休憩時間に自分の携帯電話や公衆電話を。

2.緊急でも私用の場合は、上司の許可を得て席をはずし、自分の携帯電話や公衆電話を 使います。

3.社内の者との連絡でも、私用の場合は休憩時間に自分の携帯電話や、公衆電話を使用 します。

【不要な私物は持ち込まない】

出退社の際は、日常の携帯品以外は、持参しない。社品、私物の区別がつきにくくなるからです。持参するときは、所定の手続きをとること。

【雑談や私語は慎む】

自分の仕事が一段落すると、つい気が緩んで同僚に声をかけがち。 でも、これは他の人の仕事の妨げになります。

顶部

发表于: 2004/11/02 01:47pm 赵艳利

下面引用由三浦忠在 2004/10/21 11:21pm 发表的内容:

私が1/3もちゃんとやってないので、恥ずかしいと思います。

「これから改善していかないとあかんわ」と思いながら、指摘されたことを受入れます。ですけど、その要 ...

それは日本人でさえできないこともあるんですね。

ただ、日系企業にはそういうこともあるんだ、そういうふうにことを見ている人もいるんだ、って知っておけば、勉強になるんでしょう。

みなさん、がんばってね。

顶部

发表于: 2004/11/18 11:50pm 赵艳利

●職場の整理整頓

----仕事は、まず整理整頓から

整理整頓ができていない職場では、仕事の効率も悪くなります。自分の机

篇三:日本文学的基本特征

日本文学的基本特征

日本经历了漫长的史前发展,于公元初进入文明阶段。中国《后汉书》记载,公元57年倭国王入贡后汉,得光武帝“汉委奴国王”印缓。《魏志?侯人传》记载公元146——188年间倭国动乱。邪马台女王卑弥呼统一国家,公元239年派使臣至中国带方郡。公元645年,经大化改新开始确立以古代豪族为基础的天皇专制主义。公元1192年源赖朝创立镰仓幕府,使日本走上封建社会道路,一直延续至1868年明治维新。在第二次世界大战失败之.前,日本天皇号称“万世一系”,从未受到异国异民族的统治。日本是亚洲第一个走上民族独立的资本主义道路的国家。日本的地理条件、社会条件和历史条件,决定了它的文学特征。

第一,日本文学形式在近代前大都是短小的,结构单纯。从古代开始,短歌形式的文学最为发达,后来发展为连歌、俳谐、俳句等,迄今不衰。日语音节、古调单纯,诗的形式不具备押韵的条件,因而日本诗歌极易与散文混同,形成散文诗化。日本随笔、日记文学,都很讲求文体的优美。散文的发展促进了短篇小说形式的物语的发达。十一世纪初出现的长篇小说《源氏物语》,其结构是由短篇小说连贯而成的,前后衔接松散,叙述简单,时间推移与人物性格变化没有必然的联系。在日本,即使长篇小说,其结构也是由短小形式组成的。这一特点贯穿于整部日本文学史,成为一种传统。江户时期井原西鹤的浮世草子《好色一代男》等长篇小说,也都是由短篇故事组合而成的。现代作家川端康成的长篇小说《雪国》,明显地具有《源氏物语》的那种结构和描写方法。日本作家在短小、单纯的结构中追求精炼的艺术表现手法。短短三两句的短歌或俳句,往往能准确地表达日本歌人、俳人的感情世界。随笔和物语中的情节描写,也极少有长段落。 第二,文学性格纤细、含蓄。雄伟崇高,不是日本作家追求的。他们追求的多是感情上的纤细的体验,表现的主要是日常的平淡的生活,在平淡朴素的生活中表达对社会对人生的冷静的思考。日本文学除很少例外,与激烈的阶级冲突一般都没有联系。即使是少数例外,作家的表现方法往往也是含蓄的,曲折的。

第三,日本的文艺观是以“真”、“哀”、“艳”、“寂”为基础的。从“真事”始,平安时期的“物哀”,镰仓、室町时期的“幽玄”,江户时期的“闲寂”,主要是在和歌的基础上发展和提炼出来的。这些理论都是和作家向往的优美境界联系在一起的。而“余情”论为这种优美的境界提供了广阔的天地。日本短小的文学形式,最大限度地发挥了作家的艺术技巧和最大限度地概括了作家所认识的客观世界。

第四,长于摹仿,变革迅速。大化革新后,日本全面向中国大陆开放。汉字、汉语乃至汉诗、汉文,原样移至日本,形成日本文学的重要分支——汉文学。在吸收中国文学的同时,日本创造了变体汉文、假名、和汉混体文,大量吸收中国词汇,创作了独具民族形式的文学作品。大化革新后经过近百年时间,日本文学有了飞跃的发展,相继出现了奈良平安文学及江户元禄文学。明治维新在资产阶级文学没有成长起来的条件下发生,在不到一个世纪的历史里,为日本资产阶级文学的产生和发展创造了条件,日本终于跻身于资本主义世界文学发达国家的行列。 日本文学史的分期

日本历史经历了大和(三世纪至七世纪)、奈良(710—794)、平安(794一1192)、镰仓(1192一1333)、南北朝(1334-1392)、室町(1392—1600)、江户(1600~1868)、明治(1868—1912)、大正(1912一1926)、昭和(1926—1988)、平成(1989-)等朝代。

古代文学.包括奈良时代和平安王朝时代的文学。这一时期古代处于奴隶制的社会条件下,经历了大和时代的口头文学,奈良时代确立起借用汉字汉文的书面文学。氏族时代的英雄故事和传说说,在《古事记>》、《日本书纪》、《风土记》中被记录下来,同时创作了开日本汉诗文先河的《怀风藻》和《凌云集》等。《万叶集》集录长歌二百六十余首,短歌四千余首,深刻地表现了大化革新前后日本社会变革的状貌,成为奈良文学的顶峰。延历十三年(794),京城由平城京迁

至平安京,文学随之进入王朝时代。《古今和歌集》确立了日本短歌的基本形式,成为敕撰集之始。除短歌外,物语在这一时代也有长足的发展、出现了《竹取物语》、《落洼物语》、《字津保物语》等“虚构物语”和《伊势物语》、《大和物语

日本夫日记

》等“歌物语”,以及集两者大成者的《源氏物语》。这一时代随笔、日记文学也很发达,代表作有《枕草子》、《蜻蛉日记》等。

中世、近世文学,包括镰仓、室町时代和江户时代的文学。日本中世纪是武士阶级登上历史舞台的时代。武士阶级的兴衰也决定了这一时期的文学特征。日本称镰仓、室町时代为“中世”,称江户时代为“近世”,前者以日本封建社会的确立与发展为标志,后者以封建社会由鼎盛走向衰落为标志。镰仓、室阿时代表现武士阶级战斗历史的军纪文学流传甚广,出现了《平家物语》、《义经记》、《太平记》等。随笔、纪行、日记文学受隐遁思想影响,代表作有鸭长明的《方文记》、吉田兼好的《徒然草》等。镰仓时期在后鸟羽院主持下完成的《新古今和歌集》,表达了“余清”、“妖艳”的美。其后和歌诗坛出现了二条、京极、冷泉三家的长期对立。室町时代和歌衰落,连歌兴起,出现了宗砌、心敬、宗祗、宗长等杰出的连歌师。世阿弥的出现,推动了戏剧能的迅速发展。出现于镰仓时代的五山文学,创造了中世汉文学的黄金时期。江户文学始于十七世纪,延续二百余年。这期间町人阶级成长起来,商品经济对文学的影响是深刻的。井原西鹤的浮世草子《好色一代男》、《好色五人女》等,深刻地描绘了町人世界的生活状貌。其后小说出现了洒落本、黄表纸、人情本、滑稽本、会卷、谈本等多种形式,杰出作家作品有上田秋成的《雨月物语》、山东京传的《江户产风流烤鱼串》、曲亭马琴的《南总里见八大传入十返舍一九的《东海道徒步旅行记》、式亭三马的《浮世澡堂》等。俳谐经贞门、谈林两派,至芭蕉达于顶峰。芭蕉死后,蕉门衰落。其后与谢芜村、加藤晓台发动中兴俳谐,一度使俳谐恢复青春。小林一茶、夏目成美扩大了俳谐的题材。在俳谐流行的过程中,川柳与狂歌也发展起来。和歌在江户前期出现了下河边长流、契冲、荷田春满等代表人物,后期有贺茂真渊、小泽芦庵等改革派及香川景材的桂园派。江户戏剧的代表人物为近松门左卫门,在他推动下,净琉璃、歌舞伎发展成为最完备的古典戏剧。镰仓、室町时代怫教影响最大,而江户时期儒家思想的影响最广。藤原惺窝、新井白石的朱子学,中江藤树的阳明学,伊藤仁斋、获生祖徕的古学等,均对日本文学产生广泛的影响。对儒学采取批判态度的国学在江户后期有很大发展,主要代表者为本居宣长。

近代文学,即明治时代的文学,始于明治维新,止于第一次世界大战结束。维新后最初二十年,文学处于启蒙阶段。福泽谕吉、西周、中江兆民等最早将资本主义文明介绍到日本。丹羽纯一郎的译著和矢野龙溪的《经国美谈》、末广铁肠的《雪中梅》等政治小说,在这一时期影响颇大。1885年坪内逍遥发表《小说神髓》,1887年二叶亭四迷发表长篇小说《浮云》,表明了写实主义理论与创作开始在日本生根。同期尚有尾崎红叶、幸田露伴、樋口一叶创作的写实主义小说。1890年森鸥外发表浪漫主义小说《舞姬》,其后北村透谷发表的评论《内部生命论》、岛崎藤村发表的新诗《嫩菜集》等,都对浪漫主义的高涨起了很大的推动作用。明星派及其诗人与谢野铁干、与谢野晶子等,也为浪漫主义的发展作出了贡献.泉镜花的观念小说,系浪漫主义的晚期佳作。日俄战争(19O4-1905)结束后,浪漫主义消退,自然主义崛起。岛崎藤村的《破戒》、田山花袋的《棉被》,奠定了自然主义的基础。此后自然主义向私小说发展.出现了正宗白鸟的《向何处去》、德田秋声的《新家庭》、岩野泡鸣的《放浪》等。晚起的广津和郎等形成的奇迹派,为自然派的支脉。与自然主义相联系的,尚有正冈子规的写生论,石川啄木、上歧善麻吕等人的和歌。明治末期,反自然主义的作家与流派开始流行。为首者为森鸥外与夏自漱石。具有浪浸性格的鸥外创作了长篇小说《青年》、《雁》和历史小说《阿部一族》,表现了清醒的理智主义。漱石发表了《我是描》,对资本主义文明提出了批评。以后他又创作《三四郎》、《从此以后》、《门》等小说。在第一次世界大战前夕,白桦派文学步入文坛。武者小路实笃的《幸福者》、志贺直哉的《在城崎》、《暗夜行路》、有岛武郎的《该隐的末裔》等,表达了强烈的人道主义。新思潮派兴起于第一次世界大战期间,延续至二十年代初。代表作家作品有芥川龙之介的《罗生门》、《鼻子》、《河童》,菊池宽的《父归》、《恩仇必报》,山本有三的《杀婴》等,一方面追求理智,一方面讲求技巧。唯美主义

作家也是和自然主义敌对的,诗歌方面的代表有木下(上木下工)太郎、北原白秋等,小说方面的代表有谷崎润一郎、永井荷风、佐藤春夫等。

现代文学,始于第一次世界大战的结束,指大正后期、昭和年代及平成年代的文学。在十月革命影响下,二十年代和三十年代初日本工人运动很发达,从而推动无产阶级文艺运动走向高潮。叶山嘉树的《海上的人们》,小林多喜二的《一九二八年三月十五日》、《蟹工船》,中野重治的诗集,德永直的《没有太阳的街》等,极大地鼓舞了广大革命群众。与无产阶级文艺对垒的新感觉派,主要作家作品有横光利一的《太阳》、《机械》、川端康成的《伊豆的舞女》、《雪国》等。其后新兴艺术派的井伏缚二、林芙美子等人,一度很活跃;新心理主义文学出现了堀辰雄、伊藤整等新人。1937年日本发动全面侵华战争后,曾使很多作家卷进鼓吹能争的歧途。侵略战争的失败,使日本获得了民主改革的机会。战后初期阶段,民主主义文学发展很快。宫本百合子的小说受到欢迎。四十年代末五十年代初、对战争采取批判态度的战后派作家野间宏、椎名麟三、梅崎春生、中村真一郎、武田泰淳等登上文坛,其后尚有三岛由纪夫、大同升平、安部公房等第二次战后派登场。五十年代中期,吉行淳之介、安冈章太郎、小岛信夫、庄野润三、远藤周作等第三代新人,以其城市生活题材引起人们注意。五十年代后期,石原慎太郎、大江健三郎、开高健等人的反传统道德的小说开始流行起来。在经济高度发展的六十年代,有吉佐和子、水上勉、北杜夫、丸谷才一、清冈卓行等的作品受到欢迎。七十年代前期在《作人》杂志周围,团结了关心社会问题的作家高桥和已、小田实、真继伸彦、柴田翔等。七十年代和八十年代,被称为“内向的一代”作家开始崭露头角,主要有古井由吉、后藤明生、黑井千次、阿部昭、小川国夫等人。之后,“空虚的一代”登上文坛、代表作家有村上龙、三田诚广、立松和平、高桥三千纲、中立健次等。战后,推理小说有很大发展,五十年代开始,松本清张以社会派推理小说赢得了广大的读者,其后出现了佐野洋、三好彻、森村诚一等众多推理小说作家。在大众化的文学中,将纯文学和通俗文学统一起来的井上靖,创作了被称为“中间小说”的《斗牛》、《冰壁》等,受到欢迎。战后大众文学中著名作家尚有大佛次郎、山本周五郎、新田次郎、立原正秋、五木宽之、星新一等。

中日文学交流

中日两国远在两千年前就有文化联系。公元一世纪至二世纪,中国的铁、铜、纺织技术传入日本,带有汉字的铜镜、铜剑、铜铎也被日本人用作宝器和祭器。据传中国的《论语》和《千字文》地早由阿直歧、王仁传入日本。

日本进入律令制国家的和铜五年(712),太安万侣奉命完成 《古事记》。是为日本第一部书面大作,和中国文学有着密切的联系,全书使用汉字写作。在汉字的基础上形成“假名书”(一字一音)、“宣命书”(以汉字作音训,中间加助动词、动词、形容词语尾等)和纯汉文体、准汉文体等。其后《日本书纪》袭用中国《汉书》等史书,用纯汉文体写作。《常陆民土记》的文笔也为流畅之纯汉文体。《怀风藻》(751)、《凌云集)(814)、《文华秀丽集》(818)、《经国集》(827)等,均为日本最早的汉诗集,显示了由五言向七言律诗发展的作诗技巧。

《万叶集》为古代和歌的结晶,反映了中国文学影响的另一面。全书使用汉字为音训的万叶假名,编排学习中国《诗经》等书,作者中的山上忆良等人曾留学中国,颇受中国文学影响。中国儒家、老庄及佛教思想,对《万叶集》也有很深影响。

平安时代,由于遣唐使的频繁往还,学习中国形成热潮。随着日本向中国派出大量的留学僧、学问生,中国各种书籍大量传入日本。中国文学的影响向更深更广的方向发展。李白、白居易的诗深入至后宫和有文学优养的贵族家庭。《游仙窟》等唐人小说,广为流传,并影响了物语、说话的发展。紫氏部受过很好的汉文学教养,所著《源氏物语》明显地受《史记》和《白氏文集》的影响,其中桐壶卷足见《长恨歌》的影响。 镰仓时期的军记物语,随处可以找到与中国说话文学的联系。《平治物语》里有许由的故事、楚汉相争的故事、吴越之战的故事;《源平盛衰记》里有周成王臣下的故事和王莽、武则天、褒姒、苏武、季札、勾践、来买臣等人的故事等。《平家物语》以和汉混合文体写作,引用中国史话颇多,也使用中国的很多成语及词汇,出典最多的是

《史记》、《白氏文集》及《春秋》、《论语》、《汉书》等。《太平记》中中国文学的影响,特别是《史记》的影响尤为显著。在《太平记》中也可以找到《李娃传》的影子。

汉诗文发达的五山文学,最早来自留学中国的荣西。宋僧一山、一宁归化日本后,培养了虎关师鍊、雪村友梅等五山文学的先驱。在二百五十余年的历史中,五山文学一直同中国文学有着密切的联系。

江户小说的发达,同宋话本、明清小说的关系甚大。假名草子的《棠阴比事物语》即为中国宋代桂万荣《棠阴比事》的翻译与改写。江户时代将这种翻译加改写的方法称“翻案”,一时成为风气。浅并了意的《伽婢子》即为明代瞿佑、李昌祺《剪灯新话》等的翻案。《狗张子》即为《续玄怪录》、《唐人说荟》、《剪灯新语》等的翻案。上田秋成的《雨月物语》翻案于中国《古今小说》、《醒世恒言》、《警世通言》、《剪灯新话》等。都贺庭钟的《英草子》也翻案于《警世通言》、《古今小说》等。曲亭马琴的《南总里见八犬传》翻案于《水浒》。徘谐大师芭蕉学习过杜甫、李白、苏武、黄庭坚等人的诗,其中尤爱杜甫,蕉风的形成有赖于汉诗。

江户时代儒学有了长足的发展,出现了朱子学、阳明学、古学、折衷学、考证学等学派。江户时代汉诗也极为发达。十七世纪,藤原惺窝、木下顺庵等汉诗以经学为主;十七世纪末至十八世纪中叶,获生徂徕、新井白石、服部南廓等尊崇唐诗;十八世纪中叶至十九世纪前叶,释六如、市河宽斋、山本北山等由鼓吹唐诗风格转向宋诗;中叶,梁川星严等重视清诗,尤爱袁枚、蒋士铨等。

明治维新以后,日本转而向西方开放,但仍保留着同中国文学交流的传统。至今日本大中学校仍设有汉诗汉文课。日本著名文学家大都具有高深的中国文学素养。夏目漱石受陶渊明、王维、杜甫影响,创作了众多出色的汉诗。正冈子规曾说:“俳句、和歌、汉诗形式虽异,志趣却相同、其中俳句与汉诗相似之处尤多,盖因俳句得力于汉诗之故。”

日本近现代还出现了不少研究中国文学的学者。青木正儿对元曲、水浒的研究,吉川幸次郎对杜甫的研究,竹内好对鲁迅的研究等,受到广泛的好评。

近代以前,中国文学对日本的影响是深远的、广泛的。而近代以后,由于日本较早吸收资本主义文明,开始更多地影响中国。鲁迅称他最爱读夏目漱石、森鸥外的作品。郭沫若、郁达夫、夏衍、田汉、成仿吾等都在日本渡过他们的学习时代,并开始文学创作。

________________________________________

-- 作者:牧者

-- 发布时间:2005-1-11 23:25:03

日本文学简史

奈良时期 [8世纪]

最早的文学典籍是《古事记》、《日本书纪》及《风土记》。前两部著作追记了日本国史,后一部则记载了日本各地自然状况、风土人情。两者均收录了丰富的神话传说和生动的古歌谣。稍后出现的汉诗集《怀风藻》标志着文人诗歌创作的肇始,而和歌集《万叶集》的编撰成功则代表着日本诗歌发展的第一个高峰。

平安时期[8-12世纪]

受中国唐代文化影响,大量汉诗文集相继问世,汉文学热持续一个世纪之久。敕撰诗集《古今和歌集》恢复了日本民族诗歌的地位。与此同时,散文创作硕果累累:《竹取物语》、《伊势物语》开辟了传奇物语和歌物语两条道路 ,《 宇津保物语 》开长篇物语的先河,这就为物语文学的集大成之作《源氏物语》的诞生奠定了基础。长篇写实小说《源氏物语》出自女作家紫式部之手。作者以沉郁、凄婉的笔调抒写了源氏苦乐掺半的一生及宫廷妇女不幸的命运,表达了作者人生无常的佛学观和以哀为极至的美学观。除紫式部外,许多女作家的作品都于此时脱颖而出,如《蜻蛉日记》、《和泉式部日记》、《更级日记》等。这些日记成为日本后世文学中私小说的滥觞。女性

散文中较为引人注目的是清少纳言的随笔《枕草子》,作者观察之敏锐细腻,用笔之纤柔清丽,一直为后人所称道。此期散文创作的最后收获是佛教说话集《今昔物语》和历史物语《大镜物语》。这些物语一改王朝物语的纤弱文风,拓展了物语文学表现的范围。

镰仓室町时期[12-16世纪]

随着武士阶级登上历史舞台,贵族和歌文学走向衰落。1205年完成的《新古今和歌集》虽与《万叶集》、《古今和歌集》形成三足鼎立之势,但毕竟是强弩之末,取而代之的是连歌和俳谐的兴起。二条良基、山崎宗鉴等人确立了连歌、俳谐的文学地位。散文方面也出现了描写新兴武士生活的军记物语和抒发隐遁者之情的僧人随笔。军记物语中臻于成熟的经典之作是记述平、源两大武士集团兴衰始末的《平家物语》。小说刻画了平清盛等骁勇善战的武士英雄形象,再现了他们自信向上的精神风貌,客观上反映了贵族社会向武士社会转变的时代本质。僧人随笔中的传世之作是鸭长明的《 方丈记 》和吉田兼好的 《 徒然草》。两篇随笔各具特色,被誉为随笔文学的双璧。该时期诞生的能与狂言是日本戏剧史上辉煌的开端。“能”着重演唱、舞蹈表演,具有庄重典雅的正剧特点,“狂言”以幽默滑稽的科白为主,体现轻松诙谐的笑剧风格。世阿弥(1363~1443 )在能乐的表演艺术和创作理论等方面作出了开拓性贡献。

江户时期[17-19世纪]

商业经济的发展带来了社会结构的变化,町人阶级(市民阶层)作为社会的主体逐渐成为文学作品的欣赏者。适应他们的审美要求,松尾芭蕉在贞门、谈林俳谐的基础上,推出了世俗化的蕉风俳谐,井原西鹤铺写了町人的商业生活和享乐生活,丰富了浮世草子(风俗小说)的创作内容。近松门左卫门的净琉璃(木偶戏)更广泛地表现了社会下层人物的生离死别、喜怒哀乐。这种以俗为美的美学追求,导致轻文学(戏作文学)的产生,给后世文学带来一定的消极影响。

明治时期[1868-1911]

1868年明治维新是日本近代文学开始的标志。坪内逍遥(1859~1935)的小说理论著作《小说神髓》的发表,具有近代文学启蒙的性质。二叶亭四迷写出近代第一部现实主义小说《浮云》,森鸥外相继发表近代最早的浪漫主义小说《舞姬》,确立了近代文学的发展方向。砚友社作家群的代表尾崎红叶(1867~1903)的名作《金色夜叉》是19世纪末最畅销的小说。20世纪初,受西方影响,自然主义文学兴起。代表作家岛崎藤村的长篇小说《破戒》具有强烈批判现实的倾向,田山花袋的小说《棉被》却不乏自然主义文学的特点,受到自然主义文学理论家的赞许。卓立于这一运动之外的作家夏目漱石,其代表作《我是猫》以嬉笑怒骂的讽刺给予近代社会的种种弊端以有力抨击。

大正时期[1912-1925]

近代文学进入末期,以武者小路实笃(1885~1976)为首的白桦派作家和以芥川龙之介为代表的新思潮派作家等,为文坛主流。芥川的小说以怀疑主义对“人性的自私”等社会现实进行考察,悲观的结论导致其自杀,也意味着大正文学发展的终结。

昭和时期[1926-1988]及其后

日本现代文学开始形成并得以发展。初期文坛的主流是无产阶级文学。1928年全日本无产者艺术联盟(简称纳普)成立,促进了无产阶级文学的成熟。小林多喜二和德永直(1899~1958)的小说《蟹工船》和《没有太阳的街》是典范之作。与革命文学并立的是新感觉派作家,其代表横光利一(1898~1947)和川端康成 等在 当时有一定影响。1937年日本侵华战争全面展开至第二次世界大战结束期间,许多作家被征集从军,文坛冷寂不振。

第二次世界大战以后,文学流派竞生,作家辈出。

体裁作文